出版部

ミコラ・イヴァノビッチ・コストマロフ

2025-05-03 02:20:16
2025-05-04 10:09:45
目次

生まれ:1817年5月16日 死去:1885年4月19日 67歳

ミコラ・コストマロフはロシアとウクライナの民俗および歴史研究の分野で最も有名な人物の一人であり、詩人、作家でもある。
サンクトペテルブルク考古学委員会の委員兼編集者(1860-1885)、ネストル年代記作家歴史協会の会員、モスクワ考古学協会の会員、サンクトペテルブルク科学アカデミーの通信会員 (1876)。

ロシア帝国ヴォロネジ県オストロゴジスキー地区ユラシフカ村で地元の地主イヴァン・ペトロヴィッチ・コストマロフと農奴タチアナ・ペトロヴナ・メリニコワの間に結婚前に生まれ、ロシア帝国の法律に従って父親の農奴となった。ミコラ・コストマロフの父親はコサック入植者の子孫であり、母親のタチアナは農奴であったウクライナの農民の娘とされる。イヴァンはタチアナとミコラの生誕後結婚。

1828年7月14日の父親の突然の死によって、コストマロフの家族は法的に大変困難な状況に置かれることとなった。
婚外子として生まれたミコラ・コストマロフはロシア帝国の法律上、父親の農奴であり、相続によって父の最も近しい親戚であるロヴニェフ家にその身柄を引き継がれることになった。
ロヴニェフ家がミコラの母タチアナに、14,000デシャチーナ(約15,295ヘクタール、約152.95平方キロ)の肥沃な土地の代償として、寡婦の取り分である50,000ルーブルを紙幣で、そして息子に自由(身分の解放)を提案した時、彼女は同意せざるを得なかった。

非常に控えめな財産だけが残ったため、母親はミコラをモスクワの寄宿学校(パンシオン)から、家により近いヴォロネジの寄宿学校へ転校させた。そこでの学費は安く済んだが授業の質は非常に低かった。不満なミコラは授業態度から退学となり、ヴォロネジのギムナジウムに移った。
母方を通じてウクライナの血を引くコストマロフはハルキウ大学で学び、ウクライナのロマン主義者の仲間との親交を通じてウクライナの民間伝承とコサックの歴史に魅了されるようになった。

20歳になって大学を卒業したコストマロフは兵役に就き、オストロゴジスクのキンブルン竜騎兵連隊で士官候補生であった。
郡裁判所には郡創設時からのかつてのコサック連隊の事務記録が保管されていたのだが、それらを整理し始めたことでコストマロフはその連隊の歴史家となった。ここでの役割が学者としての彼の関心を形成する上で大きな役割を果たした。

1840年、コストマロフは修士号試験に合格し、1596年のブレスト合同(正教とカトリックの合同)をテーマとした論文の準備を開始した。しかし、その研究(「西ロシアにおける合同の原因と性格について」)は、ロシア帝国政府により承認と発表を受け入れられなかった。この論文は1841年に単行本として出版され、広く知られるようになった。だが、この客観的な研究は、ウクライナにとって重要な問題の公式な解釈からは逸脱していると教会の権威者たちの激しい抗議を引き起こした。
ミコラ・コストマロフの第二の論文は1年半後に準備され、「ルーシの民衆詩の歴史的重要性について」と名付けられた。これは思想的な非難を引き起こさず、1844年に無事承認された。コストマロフは修士の称号を得て、学術的および教育的な仕事に集中することが可能になった。
1846年の春、キーウ大学の学術評議会はコストマロフをロシア史の講師に選出し、8月1日からは准教授に任命した。ここでコストマロフは、ウクライナ史の研究という大規模な仕事に深く入り込んだ。

1846年、キーウでタラス・シェフチェンコらと聖キリル・メトディウス兄弟団を結成。ウクライナ解放と自治、「スラヴ諸民族の連邦構想」を提唱した。1847年3月30日、密告によりコストマロフはロシア帝国当局に逮捕され、十年の流刑に処された。この体験は、彼の民衆中心の歴史観をより深める切掛となった。

彼は三百を超える歴史、報道、文学作品を執筆した。十七世紀前半から中期のウクライナ・コサックの歴史に関する最初の詳細な著作『ボフダン・フメリニツキー』が最もよく知られる。
フメリニツキーの死後に訪れた悲劇的な出来事についての『廃墟』(1879年-1880年)、『マゼーパ』および『マゼーパ支持者たち』(1882年-1884年)。また、古ルーシ、ウクライナ、およびロシア史の主要な人物たちの批判的な伝記が示されている基礎的な著作『ロシア史 ― その最も重要な活動家たちの生涯における』(1874年-1876年)などがある。

ロシア史そのものについては、スチェパン・ラージンの反乱に関する著作の他に、『北ルーシの民衆支配』(1863年)と『モスクワ国家の不安定な時代』(1866年)がある。

1873年、コストマロフはかつて求婚したものの投獄や親の反対によって別れることとなったアリーナ・クラヘリスカと再会し、コストマロフが亡くなるまでの期間共に過ごした。コストマロフとアリーナの関係はヴィクトル・ペトロフによって小説『アリーナとコストマロフ』として書かれた。これはウクライナ文学における最初の小説化された伝記となった。

1885年、聖メトディウスの永眠日にコストマロフは急に体調を悪化させた。翌朝4月19日、サンクトペテルブルクのヴァシリエフスキー島にある自身の集合住宅で亡くなった。
1885年4月23日、サンクトペテルブルクのヴォルコヴォ墓地に埋葬された。

この記事を書いた人

高野昂 kotakano

イラストレーター 著作家 翻訳者