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生まれ:1778年11月29日 死去:1843年8月20日 64歳

グリゴリー・クヴィトカ=オスノヴャネンコは本名グリゴリー・フェドロヴィチ・クヴィトカで、オスノヴャネンコはペンネームである。
ハルキウ州オスノヴァ集落の名主であるスロボダ・コサックのクヴィトカ家出身。

クヴィトカ家は十七世紀に最初にポルタヴァ地方に現れた。クヴィトカ家の一人がザポリージャ・コサックのハジヤチ連隊の連隊長を勤めたことが記録されている。
ハルキウのコサック連隊長だったグリゴリー・セメノヴィチ・クヴィトカが、オスノヴァ集落を買い取りここに移住。これがオスノヴァでのスロボダ・コサックとしてのクヴィトカ家の始まりとされる。一族は以後スロボダ連隊の隊長を務め、またハルキウ市の発展に大きく寄与した。

彼のペンネームのオスノヴャネンコは一族の拠点であるオスノヴァからつけられたものだ。

オスノヴャネンコは家庭で教育を受けた後、クリャジュ修道院付属学校で学んだ。彼の一族は文化芸術を愛好しており、定期的に劇が上演され彼も出演した。十五歳から軍務につき、また一年ほどの修道生活を経て再度軍務。三十九歳から十年間、郡貴族会の代表を務めた後、ハルキウ刑事裁判所長となった。

彼はハルキウの発展のため精力的に関わり、様々な活動を行った。ハルキウ大学付属科学協会の会員となり、ハルキウ劇場の共同創設者となった。慈善協会、貴族令嬢研究所、およびハルキウ県立公共図書館等公共施設の設立にも関わった。のちにオレスト・ソモフがデビューした雑誌『ウクライナ・ヘラルド』を立ち上げたメンバーの一人でもある。彼は最初の作品をこの雑誌で発表した。
また、ミコラ・コストマロフらと共同で多くのウクライナとロシアの作家の文芸作品を掲載した年鑑『モロディク』の発行に貢献した。

一八二〇年代から三〇年代にかけて、彼はロシア語で数多くの戯曲を執筆した。ウクライナ人はロシア帝国内で「マロロス」(小ロシア人)と呼ばれ、また「ホホール」という蔑称が用いられることもあった。全員がロシア語を話す中、一人だけウクライナ語を話す「マロロス・ホホール」のシェルメンコの三部作などがある。
  「貴族選挙、第二部、あるいは郡長の選出」(1830年)
  「シェルメンコーウォーロス(郡の下部行政単位)の書記」(1831年)
  「シェルメンコー従卒」(1835年執筆、1840年出版)
三〇年代後半にはウクライナ語での戯曲執筆も行った。「ホンチャリウカでの求婚」(1835年)、「喧嘩女」(1840年)といった喜劇作品を出版した。

一八三〇年代には数多くの長編、短編の小説を執筆した。一八三二年に出版された長編小説『マルシャ』によってウクライナ散文の創始者とみなされており、「ウクライナ散文の父」と呼ばれている。オスノヴャネンコの『哀しみのオクサーナ』はウクライナ文学を初めてヨーロッパの読者に紹介した作品の一つである。一八五四年にパリでフランス語に訳されて出版、その後各国語に訳された。

タラス・シェフチェンコはクヴィトカ・オスノヴャネンコと文通していた。詩人は彼の作品に肯定的な評価を与え、「オスノヴャネンコへ」(「急流が打ちつけ、月が昇る」 1839年)という詩を献呈した。また同名の作品に「治癒師」「パンナ・ソートニキウナ」の挿絵を制作した。

彼は重病にかかり、一八四三年八月二〇日、ハルキウで亡くなった。

この記事を書いた人

高野昂 kotakano

イラストレーター 著作家 翻訳者